ログイン翌朝。
目を覚ました美咲が最初に思い出したのは、昨日の雨だった。 そして、雨の中で傘を差し出してくれた男性のこと。 「……蓮さん」 名前を口にしてから、美咲は少しだけ笑った。 名字も知らない。 年齢も知らない。 仕事も知らない。 昨日会ったのは、ほんの数分だ。 それなのに、なぜか印象に残っている。 特別なことをされたわけではない。 傘を貸してくれただけ。 それでも、あの人の距離の取り方が心地よかった。 必要以上に話しかけてこなかった。 困っていることには気づいてくれたけれど、余計なことは聞かなかった。 美咲はベッドから起き上がり、カーテンを開ける。 昨日とは違い、空は晴れていた。 「今日は、傘いらないな」 そう呟いて、出勤の準備を始めた。 出版社に着くと、昨日の原稿確認が待っていた。 午前中から打ち合わせが続き、気づけば昼になっている。 「水城さん、昨日の原稿どうでした?」 向かいの席に座る同僚が声をかけてきた。 「大丈夫。少しだけ修正をお願いしたいところがあるけど、今日中には返せそう」 「相変わらず早いですね」 「昨日、少し見ておいたから」 そう答えながら、美咲はパソコンの画面を見つめる。 仕事をしている間は忘れていた。 けれど、昼休みに一人になると、また昨日のことを思い出した。 黒い傘。 落ち着いた声。 そして、「気をつけて帰ってください」という言葉。 どうしてこんなに気になるのだろう。 自分でも少しおかしいと思う。 「……一度会っただけなのに」 美咲は苦笑した。 恋なんて、そんな簡単なものではない。 そう思っている。 以前は、もっと簡単に人を好きになれた。 けれど、過去の恋愛で傷ついてからは、誰かを好きになることそのものを避けていた。 期待すれば、失望する。 信じれば、裏切られる。 だから、深入りしないほうがいい。 そう決めていた。 それなのに。 昨日の男性のことだけは、なぜか気になった。 「名前……蓮さん、か」 もう会うこともないだろう。 そう思った。 その日の帰りまでは。 仕事を終えた美咲は、駅前の書店に立ち寄った。 担当している作家の新刊が並んでいるか確認するためだった。 仕事柄、書店に立ち寄ることは珍しくない。 新刊コーナーを眺めながら歩いていると、ふと、少し離れた場所に見覚えのある後ろ姿があった。 黒いジャケット。 背の高さ。 立ち方。 美咲の足が止まる。 まさか。 そんなはずはない。 昨日会っただけなのだから。 けれど、その男性が振り返った。 目が合う。 「あ……」 男性も少し驚いた顔をした。 そして、昨日と同じように穏やかに笑った。 「昨日の……」 「蓮さん」 先に名前を呼んだのは、美咲だった。 言ってから、少し恥ずかしくなる。 蓮は目を細めた。 「覚えていてくれたんですね」 「もちろんです。昨日、助けてもらったので」 「それならよかったです」 昨日と同じ言葉。 けれど今日は、傘の下ではない。 ちゃんと顔を見て話している。 「ここ、よく来るんですか?」 「たまに。本を買いに」 「そうなんですね」 美咲は書店を見回した。 蓮の手には、一冊の本があった。 「小説ですか?」 「ええ」 「私も本が好きなんです」 「そうなんですか?」 「仕事も、本に関わる仕事なので」 「出版社の方?」 「はい。編集をしています」 そう答えると、蓮は少しだけ驚いた。 「編集者なんですね」 「はい。でも、そんなに大したものじゃないですよ」 「そんなことないと思います」 即答だった。 美咲は顔を上げる。 「どうしてですか?」 「本を作る仕事って、誰かの書いたものを世の中に届ける仕事でしょう?」 蓮は手にしていた本へ視線を落とした。 「誰かが書いたものを、誰かに届ける。その間にいる人がいるから、本が読まれるんだと思います」 「……」 「大切な仕事だと思いますよ」 美咲は、何も言えなかった。 褒められたからではない。 その言葉が、妙にまっすぐだったからだ。 「ありがとうございます」 少し遅れて、美咲は笑った。 「蓮さんは、何をされているんですか?」 そう尋ねると、蓮の表情がほんの一瞬だけ止まった。 けれど、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。 「会社員です」 「そうなんですね」 「普通の会社員ですよ」 それ以上は話さなかった。 美咲も、聞かなかった。 昨日と同じだった。 必要以上に踏み込まない。 そのことが、やっぱり心地よかった。 「じゃあ、私はこれで」 「はい」 別れようとした美咲に、蓮が声をかける。 「水城さん」 「はい?」 「今日は雨、降らなさそうですね」 美咲は窓の外を見る。 夕暮れの空は、薄い雲がかかっているものの、雨の気配はない。 「そうですね」 「よかった」 「……どうしてですか?」 「昨日、雨に濡れていたので」 それだけ言って、蓮は笑った。 「では、気をつけて帰ってください」 昨日と同じ言葉。 でも今度は、少し違って聞こえた。 美咲は書店を出た。 駅へ向かいながら、何度も後ろを振り返りそうになる。 けれど、振り返らなかった。 ただ、胸の奥には昨日とは違う気持ちが残っていた。 ──もう一度、会えた。 偶然だった。 きっと、ただの偶然。 それでも美咲は、少しだけ嬉しかった。 そしてその夜。 ベッドに入った美咲は、ふと思った。 もしまた会えたら。 今度は、もう少し話してみたい。 そんな小さな願いが生まれていることに気づいて、美咲は自分でも驚いた。 もう誰かを好きになることなんてない。 そう思っていたはずなのに。 その気持ちは、まだ名前のないまま。 静かに、美咲の中で芽を出し始めていた。「午前六時十二分……」 美咲は、資料に記された時刻を指でなぞった。 事件が起きたのは、五年前の六月十八日。 そして、見吉圭が黒崎グループに入館したのは、その翌朝。 六月十九日、午前六時十二分。 「契約終了日は六月十九日になっています」 美咲が言う。 「つまり、契約が切れる当日に、わざわざ会社へ来たってことか」 高瀬が腕を組んだ。 「はい」 「しかも、こんな早朝に」 二人は顔を見合わせた。 普通の出勤時間ではない。 まして、契約終了を控えた社員が、朝の六時過ぎに会社へ来る理由など簡単には思いつかなかった。 「入館した場所は?」 高瀬が尋ねる。 美咲は記録を確認した。 「社員用入口じゃありません」 「どこだ?」 「地下搬入口です」 高瀬の表情が険しくなった。 「……18番か?」 「そこまでは記録にありません」 美咲は首を振った。 「ただ、地下フロアへの入館記録になっています」
「……見吉圭」 美咲は、古い契約記録に残された名前を見つめていた。 何度読み返しても、名前は変わらない。 見吉圭。 五年前、黒崎グループのシステム保守を担当していた契約社員。 そして、事件の直後に契約を打ち切られた人物。 「これで、名前は確認できたな」 隣で高瀬が低く呟いた。 「はい。でも……」 美咲は、資料から顔を上げる。 「見吉さんが真犯人だとは、まだ言えませんよね」 「その通りだ」 高瀬は即答した。 「事件当時、見吉がどこにいたのか。黒崎と接触したのか。殺害に関わったのか。そこまでは、この記録だけじゃ分からない」 「それに……」 美咲は、野村の証言を思い出した。 事件翌朝。 地下搬入口。 帽子を深くかぶった人物。 そして、その人物が拾った紙片。 そこに書かれていた数字──。 「72」 「高瀬さん」 「なんだ?」 「野村さんが見た人物について、もう一度確認したいです」
野村から届いたメールを、美咲は何度も読み返した。 ──見吉圭は、事件の翌朝、地下にいた人物です。 そこまでは分かっている。 問題は、その次の一文だった。 ──ですが、私が見たのは彼だけではありません。 「もう一人……」 美咲は小さく呟いた。 高瀬にもメールを転送する。 数分後、電話が鳴った。 『読んだ』 「はい」 『野村に確認しよう』 「私もそう思います」 二人は野村と会うことにした。 待ち合わせ場所は、前回と同じ喫茶店だった。 野村は美咲たちが席に着くと、しばらく黙っていた。 「メールのことですね」 「はい」 美咲は手帳を開いた。 「見吉圭さん以外に、もう一人いたというのは?」 野村はすぐには答えなかった。 やがて、静かに口を開く。 「事件の翌朝、私は黒崎グループの地下搬入口近くにいました」 「どうしてですか?」 「神崎グループからの出向者として、前日の
翌朝。 美咲は、ほとんど眠れなかった。 頭の中を、あの五文字が何度も巡っている。 ──ミヨシケイ。 数字だったものが、名前になった。 けれど、まだ漢字が分からない。 美咲は出勤すると、すぐに高瀬へ連絡を入れた。 「昨日の数字、調べました」 『ああ』 「ポケベル暗号で読むと、ミヨシケイになります」 『それで?』 「漢字を特定したいんです」 『野村に聞くか?』 「はい。でも、その前に一つ確認したいことがあります」 美咲は昨日の資料を机の上に並べた。 黒崎グループ側の契約記録。 神崎グループ側の契約記録。 そして、地下管理室の入退室記録。 共通しているのは、ひとつの契約。 システム保守。 そして、契約担当者の名前だけが不自然に消されている。 「名前が消されたなら、別の場所に残っている可能性があります」 『社員名簿か?』 「それだけじゃありません」 美咲は答えた
美咲は、机の上に五つの数字を書き並べた。 72・83・32・24・12 何度見ても、意味が分からない。 高瀬も腕を組んだまま、その数字を見つめている。 「文字として読め、か……」 「はい」 相沢が残した言葉。 これまでの数字とは明らかに違っていた。 18・32・07・11・4。 こちらは場所や資料を探すための手がかりだった。 だが、 72・83・32・24・12。 これは違う。 五つの数字そのものが、何かを表している。 「数字を文字にする方法……」 美咲はスマートフォンを手に取った。 検索する。 数字を文字に変換する方法。 暗号。 数字表。 いくつもの情報が表示される。 しかし、どれもしっくりこない。 「違う……」 「何が?」 「この数字は、普通の暗号じゃない気がします」 美咲は画面を閉じた。
神崎グループの旧資料室は、黒崎グループのものよりも狭かった。 棚の数も少ない。 けれど、美咲は入口に立った瞬間から、妙な違和感を覚えていた。 「……ここ、本当に使われていないんですか?」 高瀬が周囲を見る。 「五年前に本社機能が移転してからは、ほとんど使われていないはずだ」 埃の積もった棚。 古いファイル。 誰も触れていないように見える。 だが──。 美咲は一番手前の棚に目を止めた。 「これ」 棚の端に、小さな数字が貼られている。 24 高瀬が眉を寄せる。 「またか」 「はい」 美咲は慎重に近づいた。 24番の棚には、古い内部調査資料が並んでいる。 その中から一冊を取り出す。 表紙には、 黒崎グループ関連調査 と書かれていた。 「相沢さんの資料かもしれません」 ページを開く。 取引先。







