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第2話  もう一度、会いたい

Penulis: 菊池まりな
last update Tanggal publikasi: 2026-09-15 20:34:48

翌朝。

目を覚ました美咲が最初に思い出したのは、昨日の雨だった。

そして、雨の中で傘を差し出してくれた男性のこと。

「……蓮さん」

名前を口にしてから、美咲は少しだけ笑った。

名字も知らない。

年齢も知らない。

仕事も知らない。

昨日会ったのは、ほんの数分だ。

それなのに、なぜか印象に残っている。

特別なことをされたわけではない。

傘を貸してくれただけ。

それでも、あの人の距離の取り方が心地よかった。

必要以上に話しかけてこなかった。

困っていることには気づいてくれたけれど、余計なことは聞かなかった。

美咲はベッドから起き上がり、カーテンを開ける。

昨日とは違い、空は晴れていた。

「今日は、傘いらないな」

そう呟いて、出勤の準備を始めた。

出版社に着くと、昨日の原稿確認が待っていた。

午前中から打ち合わせが続き、気づけば昼になっている。

「水城さん、昨日の原稿どうでした?」

向かいの席に座る同僚が声をかけてきた。

「大丈夫。少しだけ修正をお願いしたいところがあるけど、今日中には返せそう」

「相変わらず早いですね」

「昨日、少し見ておいたから」

そう答えながら、美咲はパソコンの画面を見つめる。

仕事をしている間は忘れていた。

けれど、昼休みに一人になると、また昨日のことを思い出した。

黒い傘。

落ち着いた声。

そして、「気をつけて帰ってください」という言葉。

どうしてこんなに気になるのだろう。

自分でも少しおかしいと思う。

「……一度会っただけなのに」

美咲は苦笑した。

恋なんて、そんな簡単なものではない。

そう思っている。

以前は、もっと簡単に人を好きになれた。

けれど、過去の恋愛で傷ついてからは、誰かを好きになることそのものを避けていた。

期待すれば、失望する。

信じれば、裏切られる。

だから、深入りしないほうがいい。

そう決めていた。

それなのに。

昨日の男性のことだけは、なぜか気になった。

「名前……蓮さん、か」

もう会うこともないだろう。

そう思った。

その日の帰りまでは。

仕事を終えた美咲は、駅前の書店に立ち寄った。

担当している作家の新刊が並んでいるか確認するためだった。

仕事柄、書店に立ち寄ることは珍しくない。

新刊コーナーを眺めながら歩いていると、ふと、少し離れた場所に見覚えのある後ろ姿があった。

黒いジャケット。

背の高さ。

立ち方。

美咲の足が止まる。

まさか。

そんなはずはない。

昨日会っただけなのだから。

けれど、その男性が振り返った。

目が合う。

「あ……」

男性も少し驚いた顔をした。

そして、昨日と同じように穏やかに笑った。

「昨日の……」

「蓮さん」

先に名前を呼んだのは、美咲だった。

言ってから、少し恥ずかしくなる。

蓮は目を細めた。

「覚えていてくれたんですね」

「もちろんです。昨日、助けてもらったので」

「それならよかったです」

昨日と同じ言葉。

けれど今日は、傘の下ではない。

ちゃんと顔を見て話している。

「ここ、よく来るんですか?」

「たまに。本を買いに」

「そうなんですね」

美咲は書店を見回した。

蓮の手には、一冊の本があった。

「小説ですか?」

「ええ」

「私も本が好きなんです」

「そうなんですか?」

「仕事も、本に関わる仕事なので」

「出版社の方?」

「はい。編集をしています」

そう答えると、蓮は少しだけ驚いた。

「編集者なんですね」

「はい。でも、そんなに大したものじゃないですよ」

「そんなことないと思います」

即答だった。

美咲は顔を上げる。

「どうしてですか?」

「本を作る仕事って、誰かの書いたものを世の中に届ける仕事でしょう?」

蓮は手にしていた本へ視線を落とした。

「誰かが書いたものを、誰かに届ける。その間にいる人がいるから、本が読まれるんだと思います」

「……」

「大切な仕事だと思いますよ」

美咲は、何も言えなかった。

褒められたからではない。

その言葉が、妙にまっすぐだったからだ。

「ありがとうございます」

少し遅れて、美咲は笑った。

「蓮さんは、何をされているんですか?」

そう尋ねると、蓮の表情がほんの一瞬だけ止まった。

けれど、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。

「会社員です」

「そうなんですね」

「普通の会社員ですよ」

それ以上は話さなかった。

美咲も、聞かなかった。

昨日と同じだった。

必要以上に踏み込まない。

そのことが、やっぱり心地よかった。

「じゃあ、私はこれで」

「はい」

別れようとした美咲に、蓮が声をかける。

「水城さん」

「はい?」

「今日は雨、降らなさそうですね」

美咲は窓の外を見る。

夕暮れの空は、薄い雲がかかっているものの、雨の気配はない。

「そうですね」

「よかった」

「……どうしてですか?」

「昨日、雨に濡れていたので」

それだけ言って、蓮は笑った。

「では、気をつけて帰ってください」

昨日と同じ言葉。

でも今度は、少し違って聞こえた。

美咲は書店を出た。

駅へ向かいながら、何度も後ろを振り返りそうになる。

けれど、振り返らなかった。

ただ、胸の奥には昨日とは違う気持ちが残っていた。

──もう一度、会えた。

偶然だった。

きっと、ただの偶然。

それでも美咲は、少しだけ嬉しかった。

そしてその夜。

ベッドに入った美咲は、ふと思った。

もしまた会えたら。

今度は、もう少し話してみたい。

そんな小さな願いが生まれていることに気づいて、美咲は自分でも驚いた。

もう誰かを好きになることなんてない。

そう思っていたはずなのに。

その気持ちは、まだ名前のないまま。

静かに、美咲の中で芽を出し始めていた。

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